昭和27年4月、福島、有明、笠祇、金谷の4校から福島中学校へ入学した生徒数は実に300名を超えていた。
一クラスに50人強の詰め込み学級であった。
それゆえ勉強など出来る環境ではなかった。
といえば勉強しなかった者の言い訳になるだろうか。
人並みに希望に胸を膨らませて中学校に入学した私ではあるが、一学期も過ぎると、もとの勉強嫌いで遊び好きの自分に戻っていた。
その頃から他校からきた喧嘩大将との権力抗争が始まり、それに明け暮る毎日であった。
高崎山のサルの縄張り争いに似ていた。
特に有明小学校から来たKとは常に一触即発の状態だった。
廊下ですれ違うときなど、お互い用心深く身構えながら離合したものである。
彼とは卒業までついに相容れることはなかった。
といって殴りあうこともなかった。
今は懐かしいやつである。
2年生になると私は野球に熱中した。
津野、松本の両先生が指導に当たっていた。
松本先生について少し書いてみたい。
松本常一、通称バッちゃん。
数学や英語の授業も受けたが、それについての印象はほとんどない。
ただ、酒好きで一時間目の授業から赤い顔をして焼酎のにおいをさせていたのを思い出す。
松本先生と私の付き合いは主に放課後である。
教師と生徒というよりも、体育会系の先輩と後輩という関係に近かった。
故にバッちゃんは私をよくコキ使った。
いわく「肩をもめ」「自転車を掃除しろ」「一番大きなパンツを買って来い」等等。
いつだったか一生懸命にピカピカに磨いてやった革靴を履いてサッカーをしているのを見てムカッと来たこともある。
数十年が過ぎ、松本先生は北方中学校の校長になっていた。
近くで工事をしている私を目ざとく見つけ「おーい、しばらくだな、元気か?ちょうどいいところであった。ちょっと手伝ってくれ」
聞けば川底から引き上げた古木をもらったから学校まで運んでくれという。
それを見にいくと二人や三人で動かせる代物ではない。
自分の仕事を中断して五人の作業員を連れて行きやっとの思いで車に積み込み北方中学校まで運んだ。
この人にはいくつになってもコキ使われるなァと忌々しく思いつつどこか憎めない先生ではあった。
この愛される先生も今は故人となられた。合掌
さて、野球漬けの二年生も終わり三年生に進級した。
そろそろ今後の進路を考えなければならない。
私の家はその時期、長兄が大学、次兄が船員の養成校へ行っており家計は火の車であった。
父親は満州から引き揚げ後、横浜にいたが仕事がうまく行かず、家族のいる福島町へ帰ってきていた。
一級建築士の資格を持ちながら田舎では仕事もなく、日雇いなどに行っていた。
母親が町の養老院で働く傍ら助産婦をして家計を支えていた。
余談だが小路地区やその周辺の昭和20年代生まれの人たちはほとんど私の母親が取り上げた子供である。
十指に余ると思う。
そんな訳で私は進学できるかどうかわからなかった。
もともと勉強が好きではなく出来も悪い私はどちらでもいいと思っていた。
しかし、高校への未練もちょっぴりあって進学クラスを希望した。
あの悪名高い3年生のクラス編成の年である。
進学組のAクラスには入ったもののあいかわらず私は野球に夢中だった。
当時のメンバーの名前を列挙してみる。
投手 諌山 淳 捕手 図師博幸 一塁 私
二塁 2年生 三塁 武田好富 遊撃 駒谷秀二
外野 城 幸雄 坂田明弓 もう一人は二年生。
こんなメンバーだった。
われわれが練習しているところへたびたび女子高生が10人ほどやってきた。
そして私のいる一塁の後ろに決まって陣取った。
「俺を見に来ている」私はいいところを見せようと連日ハッスルした。
しかし、とんだ勘違いでお目当てはキャツチャーの図師博幸であった。
私の後ろがキャッチャーの顔が一番見える場所だったのである。
図師君は映画俳優にしたいようなハンサムだった。
私はといえばクマとか毛ガニと陰であだ名されるダサい男の代表である。
初めから勝負にならない。
なのに「おれを見に来ている」と思い込んで張り切っていた自分が今思えば滑稽だがいじらしい。
そしてほろ苦い。
野球シーズンも終わり、秋が来て今度は運動会である。
五ケ町村、十六ケ町村競技大会などで選手である私は忙しく、相変わらず勉強などする暇はなかった。
そして昭和29年11月3日串間市が誕生する。
人口43000人。
ちょうど現在の二倍である。
その頃になると父親が設計事務所に職を得ていて、私も進学できるメドが立っていた。
が、しかし、すでに11月である。
これまで勉強らしい勉強をしていない私が受験など出来るだろうか。
現在の福島高校はここ10年ほど少子化と有名進学校への頭脳流出で定員割れをしている。
今年もそうである。
つまり、誰でも入れる学校である。
しかし当時は人口が多い上によそへ留学させる経済力が親になかった時代でほとんどが福島高校を受験した。
その分入試は熾烈を極めた。
私の住む小路区だけでも5人もの先輩や後輩が中学浪人をしている。
「もう遅いかもしれないが一丁頑張ってみるか」私は学校の机に置きっぱなしの教科書やノートを家に持ち帰った。
そこから私の猛勉強が始まった。
食事の時間を惜しみ、睡眠時間を削ってストイックなまでに自分を追い込んだ。
後にも先にもこんなに机の前に座ったことははない。
私の勉強する姿など見たことがない両親は突然狂ったように勉強を始めたせがれを見て驚くと同時に心配した。
気が変になったと思ったらしい。
短期間とはいえこんなに学問に集中できる自分を発見して満足だった。
結果はどうでもいい気分になっていた。
わたしにとってこれが中学時代の一番の思い出になっている。
何しろ三年分の勉強を二ヶ月でやったのだから。
思い出すまま取りとめのないことを書いてきたが、あれからもう50年
たったのだ、といまさらながら歳月の早さに驚く。
しかし、それと同時にわずか三年間だが時間を共有した中学の仲間と半世紀を経た今、こうしてメールを使って会話する日々に同級生とはいいものだなと、しみじみ思うこの頃である。
この項終わり
ジョージ M
中学時代のあの頃