No.7

私の中学校生活の思い出


1、入学の頃から卒業の頃まで

 1年生の頃

昭和27年4月、宮崎県南那珂郡福島町内の小学校である、福島、有明、金谷、笠祇の4小学校から卒業した生徒310名で中学校1年生は6クラスに編成された。

中学校の校舎は昔の宮崎県の管轄であった紅茶試験場の実験室の建物を戦後の学区変更で校舎が足りなくなったので、福島町が県から紅茶試験場の払い下げを受け、そのまま中学校に使用したので、校舎は古く台風の強風に耐えるため建物の北側にはつっかい柱がある木造の校舎であった。

1年生のAクラスからDクラスまでの4クラスの教室は校門側からみて勿体森の左横の講堂のそのまた左にある1階が2教室、2階が2教室の全部で4教室ある校舎になり、EクラスとFクラスの2クラスの教室はそことは離れて、勿体森の右側の一番奥にある山側の校舎で、ここも2階建て4教室があり、1階の2教室はそれぞれ化学実験室、家庭科教室になっており、その2階の2教室に2クラスは配置され、1年生はこの二ヶ所に別れての教室配置となった。

私はEクラスとなったので、家庭科教室の上の2階が教室であった。担任教師は来住先生で串間の北方出身の厳しい先生であった。

2年生の頃

2年生になると教室は勿体森の右側の一列になった平屋造りの一番手前の校舎で、その校舎の下には小さな運動場があり授業中にはその運動場が眺められた。
AクラスからFクラスまで連続して6クラス一列で並んでおり、私はBクラスで担任教師は皆に恐れられていた怖い林忠尚先生であった。
しかし、皆に恐れられていた林先生も担任の自分のクラスの生徒にはそんなに怒る事もなく優しかった。
私などは一回も怒られた事はなかったと記憶している。

大運動場は広大で、1400mのトラックの横には野球場もあった。その他にも小運動場がありそこではテニスコートと野球が出来る位の広さであった。

3年生の頃

3年生になると、校舎は2年生の時と同じ造りの教室であったが、AクラスからCクラスまでは勿体森の右側の中央の校舎で、DクラスからFクラスまではその1段上の校舎に分かれていた。
担任の教師は内田喜八郎先生であった。

この3年生の時のクラス編成が変わっていた。
教育指導の実験だったのだろうか、我々はモルモットとして教育実験の材料に使われたのだろうか、悪評高いクラス編成であった。

その内容というのが、2年生の終わりに中学卒業後の進路を本人に聞き、進学組と就職組みに分け、その上、また、その進学組を成績順にAクラスからCクラスに3つに分けた。
また、就職組も
DからFまで成績順にクラス分けをした。当然、Aクラスには成績優秀な者が集まった。 

このクラス分けは1学期の終わり、2学期の終わりにも行われた。
努力した者の中には
1学期はCクラスだった者が、3学期の初めにはAクラスになる2階級特進の努力家も居た。
上がってくる者がいれば当然下がる者もいる。
クラスのギリギリにいる者にとっては、学期の変わり目には泣き笑いがあった。
ギリギリの線上にいた者にとっては、学期の初めにはもうどうにでもなれという捨て鉢のような気持ちで新学期の登校をした者もいた。

 英語の時間のクラス分けだけは、従来からこのようなクラス分けであったが、普通のクラス分けで、このようなクラス分けをしたのは我々が初めてで最後であった。
特にAクラスには他のクラスからはひがみやっかみがあり、クラス間が反目した。
中にはそれまで培った友情も薄くなっていくのもあった。
その後、後輩でこのようなクラス編成になったという話を聞いてない。
後にも先にも我々が最初で最後だったのではないだろうか。

当時はこの様に、クラス間で反発していたが、卒業して同窓会では誰もこの事を口に出さない触れようとしない。
いや、意識的にしないのである。

我々中学時代の同窓会が今もってこんなに全国的に盛大に継続している裏では、元郵政省職員であったF君、今は亡きS君の力が大きい。
彼らが職権?を利用して卒業生の現住所を調べ上げてくれたのである。
当初はその住所を基に各地区で同窓会を開いていたが、ある時から
1年おきに全国各地の持ち回りでやろうという事になり、それが今に盛大に継続しているのである。

2、遠足

学校恒例の遠足は、春は新入生歓迎遠足と秋の3年生とのお分かれ遠足である。
遠足は決まって高松の海水浴場のある高松海岸か長浜海岸であった。

この海岸までが中学校から歩いて行ける距離が丁度適当な遠さであったからだと思う。
中学校を出発すると松尾を通り、西小路、本西方、木代の部落を通り、みかん山の下の踏切を渡り国道に出るコースであった。

春の遠足は4月下旬か5月上旬に実施された。
南国宮崎の
5月の晴れた日は、気温もグンと上がり夏のように暑かった。
そういうときの遠足では必ず海で泳いだものである。
海水パンツは用意してないので、普通のパンツかまたは何も着ないで泳いだ。
海水浴をしていても暑いから大目に見ていてくれていたのか、引率の先生からは何も注意される事はなかった。

3、修学旅行

 中学校最後の楽しみは、秋の修学旅行である。
 当時、教育委員会が決めている中学校の修学旅行の標準コースは、別府、長崎、福岡の34日のコースであった。

しかし、我々は全員で特別コースを申し出た。
どうせ行くなら「安芸の宮島」まで行きたいと。
この申し出をしたのは、頭が良くて弁の立つ、NS君が中心だったと思う。
私は宮島なんてどこに在るのか位置さえ知らず、また、何が良いのかさえさっぱり分からなかった。彼らの説明を聞いて初めて納得したのが実情である。
学校の職員会議でも何回か検議され、教育委員会にも上申されたと思う。先生たちの努力のおかげで、安芸の宮島行きが決定した。

今度は父兄会が動いた。
どうせ行くなら全員で楽しく参加させようと。
昭和29年というと戦後まだ9年しか経っておらず、父親が戦死した母子家庭の家が沢山あり、そこの友達は金銭的に困窮している家庭ばかりであった。
一人でも多くの友達に参加させようと父兄会が中心となり、石鹸売りをしてその利益金を金銭的に困窮して参加出来ない家庭に援助した。

コースは確か、別府に1泊した後、博多に1泊し、宮島に1泊して帰りの車中で1泊する45日だったと思う。今の時代では宮島まで行くのであれば、必ず広島の原爆跡を巡るはずであるが、当時は戦後間もなくで米国の進駐軍の圧力が強かった余波であろうか、なるべく原爆跡地は見せないようにという政策があり、原爆跡地巡りは一般化してなくただ、宮島行きのみであった。

その後、中学校の修学旅行で宮島まで行ったという話を聞いた事がない。
後にも先にも我々だけだったと思う。

                                                (記)よしろう

   
                           
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